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シューベルト:ピアノ・ソナタ第15番 ハ長調 D.840「レリーク」(Schubert:Piano Sonata in C major, D.840)


(P)ヴィルヘルム・ケンプ:1967年1月録音)Wilhelm Kempff:Recorded on January, 1967)をダウンロード

  1. Schubert:Piano Sonata No.15 in C major, D.840 "Reliquie" [1.Moderato]
  2. Schubert:Piano Sonata No.15 in C major, D.840 "Reliquie" [2.Andante]

似たようなものは二つも必要ではない



後期シューベルトのピアノの・ソナタの嚆矢とも言うべきイ短調ソナタ(D.845)の直前に手がけられていたのがこのハ長調ソナタです。そして、その作品は何故か最初の2楽章は完成しているものの第3楽章と第4楽章は未完成のままに放置されてしまいます。
シューベルトが作品を未完成のままに放置してしまうのは珍しいことではないのですが、このソナタもまた、何故にこれほどに素晴らしい音楽が放置されてしまったのか不思議でなりません。
さらに言えば、未完成で放置された後続の2楽章も十分に作品の締めくくりまでもが見通せるところまで書かれているのです。ですから、後世の人はこの続きをシューベルトの見通しに添って最後まで完成させて、その補筆完成版でコンサートでも演奏されることは珍しくありません。

ただ、興味深いのは、この作品の第1楽章はこれに続くイ短調ソナタの第1楽章とほぼ同じような発想のもとに作られていることは誰の目にも明らかだと言うことです。
シューベルトは、この作品に至るまでに、ベートーベンという巨大な引力圏から離脱しようとして苦闘を続けていました。その様な苦闘の中で数多くの未完成作を生み出しながら、けっきょくはその引力圏から脱出することは不可能でした。そして3年を超えるこのジャンrにおける沈黙の後に着手したのがこのハ長調ソナタでした。

おそらく、人工衛星に例えるならば、その3年という沈黙の間に何度ものスイング・バイを繰り返して速度を上げる事によって、今度こそベートーベンという引力圏からの脱出を試みたのでしょう。そして、その幾つかの試みの中で彼が選び取ったのがイ短調ソナタであって、それと似た発想の元に書かれはじめていたハ長調ソナタは完成目前だったにもかかわらず「似たようなものは二つも必要ではない」という思いから放棄されたのではないでしょうか。
もっとも真実は常に闇の中ではあるのですが・・・。

なお、この作品に「「レリーク(聖遺物)」とネーミングしたのは当然の事ながらシューベルト自身ではなくて、後のこの作品を出版した業者の手になるものです。しかし、上のような経緯を考えてみると、なかなかに上手いネーミングだった様に思えます。

第1楽章(Moderato)
上でも述べたように、この楽章はイ短調ソナタの第1楽章と双子のような関係にあります。ただし、作曲年代から言えば、こちらが兄でありイ短調ソナタの方は弟と言うことです。
とは言え、この楽章はいかに転調好きなシューベルトと言えでも、あちこちで通常では考えられないような転調を繰り返しているのが特徴です。
また、この楽章は静かに始まり、それが次第に強さをくわえていき、最後はズッシリとした響きへと変容していきますから、ある意味ではこれもまた「交響曲への道」の一里塚だったのかもしれません。

第2楽章(Andante)
形式としては「自由なロンド」と言うことになるのでしょうが、一度聞けばしっかりと耳に残るであろうほどに強い印象を残します。
それは、音楽が非常にドラマティックであり、そこに哀しい現実と美しい夢のようなものが相克しているからでしょう。

悲しみと告白に寄りそう

ブレンデルはケンプのことを「エオリアン・ハープ」にたとえました。
「エオリアン・ハープ」とは自然に吹く風によって掻き鳴らされるハープのことで、神のはからいでそれが上手く鳴ったときは、誰もかなうものがないほどに見事に鳴り響くと言われています。

つまり、ケンプもまた、神のはからいで上手く鳴り響いたときは、それこそ誰もかなうものがないほどに素晴らしい音楽を聴かせてくれるピアニストだと言うことなのです。
そして、そう言うケンプの素晴らしさが見事にあらわれているのが1960年代のシューベルトのピアノ・ソナタ全集でしょう。

その全集録音は1965年に始まって1970年に完了しています。
つまりは、残念なことにその全集の少なくない部分がパブリック・ドメインからこぼれ落ちてしまったと言うことです。法改訂によって1967年までにリリースされたものしかパブリック・ドメインにならないので、このサイトで紹介できるのは以下の録音だけです。

  1. シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番 変ロ長調 D.960 (P)ヴィルヘルム・ケンプ:1967年1月録音

  2. シューベルト:ピアノ・ソナタ第18番 ト長調 D.894「幻想」 (P)ヴィルヘルム・ケンプ:1965年2月録音

  3. シューベルト:ピアノ・ソナタ第16番 イ短調 D.845 (P)ヴィルヘルム・ケンプ:1965年2月録音

  4. シューベルト:ピアノ・ソナタ第15番 ハ長調 D.840 (P)ヴィルヘルム・ケンプ:1967年1月録音

  5. シューベルト:ピアノ・ソナタ第13番 イ長調 D.664 (P)ヴィルヘルム・ケンプ:1967年1月録音


しかし、欲を言えばきりがないのであって、5曲だけでもパブリック・ドメインとしてすくい上げることが出来たことを慶ぶべきでしょう。

言うまでもないことですが、ここには聞いてすぐに分かる華やかさはありません。ケンプはシューベルトのソナタについて常にこのように語っていたようです。
大部分のピアノソナタは、巨大なホールの光輝くライトの下で演奏されるべきものではない。これらのソナタは、とても傷つきやすい魂の告白だからです。もっと正確にいいますと、独白だからです。
静かに囁きかけるため、その音は、大きなホールでは伝わりません。


そうです、ケンプの演奏はシューベルトにかかわらず、常に静けさに満ちているのです。最近、聞いた60年代のモーツァルトやベートーベンの協奏曲であっても、そこには静けさと吹き渡る風のような自然さに満ちています。
ですから、ケンプの晩年の演奏に対してテクニックの衰えなどを指摘しても何の意味もないのです。
彼は常に作品と向き合って、真摯にその悲しみと告白に寄りそうことだけを大切にしています。ですから、聞き手は彼の紡ぎ出す響きの中にそれを聴き取る努力を求めます。それは何気ないテンポの揺らぎであり、意味深い休止符の提示であったりします。そして、それは決して聞く人の耳をすぐにとらえる華やかさとは無縁です。シューベルトは、そのピアニッシモに自分の心の奥底の秘密を託しているのです。
しかし、一度そのケンプの嘆きとシューベルトの嘆きが共鳴していることを聞き取る瞬間があれば、おそらくこの一連のソナタの演奏は人生の宝物となることでしょう。