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ドヴォルザーク:ユモレスク


ルネ・レイボヴィッツ指揮 ロンドン新交響楽団 1961年録音をダウンロード

  1. Dvorak: Humoresque in G flat major, Op.101 No.7

ドヴォルザークという人は骨の髄まで弦楽器の人だったようです



ドヴォルザークはピアノの人ではありませんでした。
チョコの片田舎で育った彼にとってヴァイオリンは馴染みのある楽器であっても、ピアノは手の届くものではなかったようです。もちろん、音楽家を志した青年期にもなればピアノにも親しむようになったのですが、「愛着」という点ではピアノは彼にとっては最後までどこかよそよそしい楽器にとどまったようです。

ですから、ロマン派の作曲家としては珍しく、めぼしいピアノ作品をほとんど残していません。調べてみると、ピアノ作品を全く書いていないわけではないのですが、その大部分は現在ではほとんど省みられることはありません。

そんな中で、ほとんど唯一といっていいほど存在感を示しているのがこの「ユーモレスク」です。
しかし、このあまりにも有名な作品も、実はピアノ作品としてではなく、クライスラーによってヴァイオリン曲に編曲されることで有名になったのでした。そして、現在もピアノ作品としてよりはヴァイオリンの作品として演奏されるのが一般的です。

ドヴォルザークという人は骨の髄まで弦楽器の人だったようです。

なお、どうでもいいことですが、「ユーモレスク」というのは今日ではこの作品のタイトルのように定着しているのですが、実は「ユーモレスク」というのは「自由な形式による小品集」というようなイメージの楽曲形式を表す言葉でした。
ですから、この作品も正確には「8つのユーモレスク」という小品集の7番目の作品ということで、「8つのユーモレスク 第7番 変ト長調 作品101」となります。

しかし、今では「ユーモレスク」という言葉から「自由な形式による小品集」という楽曲形式をイメージする人はほとんどいないわけであって、「ユーモレスク」といえばこの作品のことです。
ある意味において、作品が楽曲形式を乗り越えてしまったわけで、考えてみれば凄いことです。(^^v

高い分析力と良い意味での「緩さ」が上手くマッチしている

レイボヴィッツの録音活動の少なくない部分を「リーダーズ・ダイジェスト」が占めています。
「リーダーズ・ダイジェスト」は月刊の総合ファミリー雑誌だったのですが、書店売りは行わずに会員制の通信販売というスタイルをとっていました。この販売方法とアメリカ至上主義の編集方針を貫くことでアメリカ最大の発行部数を誇る雑誌へと成長していきました。
そして、その会員制の通信販売というスタイルを生かしてレコード制作にも乗り出します。しかし、基本的に「リーダーズ・ダイジェスト」は雑誌社ですから録音のノウハウなどは持ち合わせていないので、その制作はRCAに丸投げしていました。

しかし、その丸投げのおかげで、同じような販売方法をとったコンサートホールソサエティ」と較べると格段に録音のクオリティが高いという思わぬ幸運をもたらしました。
ただし、その性格上、ラシック音楽の分野ではコアなクファンではない人々を対象としたために、いわゆる「クラシック音楽名曲集」のようなものが主流でした。

実は、この事に長く思い当たらず、小品の録音ばかり押し付けられるレイホヴィッツはレーベルの中では軽くあつかわれすぎていると考えていました。しかし、実際は彼にベートーベンの交響曲の全曲録音を依頼したことの方こそが異例の厚遇であり、本来の仕事はそう言う売れ筋の商品の名曲の録音だったのです。
しかし、レイボヴィッツにとって名曲小品の録音ばかりが続くというのはそれほど楽しい仕事ではなかった事でしょう。しかし、食っていくためには必要な仕事だったのでしょう。
あてがわれたオーケストラも「インターナショナル交響楽団」とか「ロンドン音楽祭管弦楽団」「パリ・コンセール・サンフォニーク協会管弦楽団」などと言う「怪しげ」なものばかりです。

レイボヴィッツは「十二音技法の使徒」と呼ばれるほどに新ウィーン楽派の音楽の普及につとめ、あわせてその技法に関しても多くの著書(「現代音楽への道」「十二音技法とは何か」「シェーンベルクとその楽派」など)を残し、自らもその理論の上に立った作品を多く残しています。
つまりは、レイボヴィッツが「指揮活動もする作曲家」であったのです。そうなると、どうしても食っていく仕事は必要だったのでしょう。

ですから、本質的に「指揮者」ではなかったレイホヴィッツの指揮には良い意味での緩さがありました。おそらくは、本意としては、作曲家としての本能として自らの楽曲分析に従ってオケを追い込みたかったのかもしれませんが、自分には、例えばマルケヴィッチのような指揮のスキルがないことも十分に承知していたのでしょう。

そんなこんなで、こういう一連の小品の録音はレイボヴィッツという「作曲家兼指揮者」のもう一つの側面を明らかにしてくれているのかもしれません。