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モーツァルト:交響曲第40番 ト短調 K.550


ルドルフ・バルシャイ指揮 モスクワ室内管弦楽団 録音年不詳(1963年初出)をダウンロード

  1. Mozart:Symphony No.40 in G minor, K.550 [1.Molto Allegro]
  2. Mozart:Symphony No.40 in G minor, K.550 [2.Andante]
  3. Mozart:Symphony No.40 in G minor, K.550 [3.Menuetto]
  4. Mozart:Symphony No.40 in G minor, K.550 [4.Allegro assai]

これもまた、交響曲史上の奇跡でしょうか。



モーツァルトはお金に困っていました。1778年のモーツァルトは、どうしようもないほどお金に困っていました。
1788年という年はモーツァルトにとっては「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」を完成させた年ですから、作曲家としての活動がピークにあった時期だと言えます。ところが生活はそれとは裏腹に困窮の極みにありました。
原因はコンスタンツェの病気治療のためとか、彼女の浪費のためとかいろいろ言われていますが、どうもモーツァルト自身のギャンブル狂いが一番大きな原因だったとという説も最近は有力です。

そして、この困窮の中でモーツァルトはフリーメーソンの仲間であり裕福な商人であったブーホベルクに何度も借金の手紙を書いています。
余談ですが、モーツァルトは亡くなる年までにおよそ20回ほども無心の手紙を送っていて、ブーホベルクが工面した金額は総計で1500フローリン程度になります。当時は1000フローリンで一年間を裕福に暮らせましたから結構な金額です。さらに余談になりますが、このお金はモーツァルトの死後に再婚をして裕福になった妻のコンスタンツェが全額返済をしています。コンスタンツェを悪妻といったのではあまりにも可哀想です。
そして、真偽に関しては諸説がありますが、この困窮からの一発大逆転の脱出をねらって予約演奏会を計画し、そのための作品として驚くべき短期間で3つの交響曲を書き上げたと言われています。
それが、いわゆる、後期三大交響曲と呼ばれる39番?41番の3作品です。

完成された日付を調べると、39番が6月26日、40番が7月25日、そして41番「ジュピター」が8月10日となっています。つまり、わずか2ヶ月の間にモーツァルトは3つの交響曲を書き上げたことになります。
これをもって音楽史上の奇跡と呼ぶ人もいますが、それ以上に信じがたい事は、スタイルも異なれば性格も異なるこの3つの交響曲がそれぞれに驚くほど完成度が高いと言うことです。
39番の明るく明晰で流麗な音楽は他に変わるものはありませんし、40番の「疾走する哀しみ」も唯一無二のものです。そして最も驚くべき事は、この41番「ジュピター」の精緻さと壮大さの結合した構築物の巨大さです。
40番という傑作を完成させたあと、そのわずか2週間後にこのジュピターを完成させたなど、とても人間のなし得る業とは思えません。とりわけ最終楽章の複雑で精緻きわまるような音楽は考え出すととてつもなく時間がかかっても不思議ではありません。
モーツァルトという人はある作品に没頭していると、それとはまったく関係ない楽想が鼻歌のように溢れてきたといわれています。おそらくは、39番や40番に取り組んでいるときに41番の骨組みは鼻歌混じりに(!)完成をしていたのでしょう。
我々凡人には想像もできないようなことではありますが。

時代の制約を突き抜けた凄みのあるモーツァルト

バルシャイとその手兵であるモスクワ室内管弦楽団のアンサンブルの精緻さは演奏史における一つの頂点を示すものであったことは疑いはありません。しかし、そこまでの技術的な成果を上げながら、その事への評価は決して高いものではありませんでした。
そうなってしまった背景には幾つかの要因はあったのでしょうが、その中でも吉田秀和氏の否定的な評価が大きな影響力を持ったことは否定しきれないでしょう。

吉田氏はバルシャイとマリナーが率いる二つの室内管弦楽団を俎上に上げて、明確にバルシャイとモスクワ室内管弦楽団を批判し、マリナーとアカデミー室内管弦楽団に対して「これまであまりぶつかったことのない独特の新鮮味と、歌の冴えがあった」と賞揚しているのです。

吉田はバルシャイ達が成し遂げた合奏の精緻さに関しては次のように述べています。

「合奏の整然たる事は一糸乱れぬと言ったものでなく、私たちがこれまで聞きなれていた合奏の精度が、かりに分とか秒とかで計ってあったとかあわないといっていたのだとすれば、この人々のは、それよりもまた一桁細かい、十分の一秒と言ったところで計るべき性格のものとでもいった印象を受けた。」
「これにくらべれば、音に名高いアルトゥール・トスカニーのの厳密さでもおおざっぱで怪しいものとなる。」

ところが、その様な正確さが結果として音楽から大切なものを取り落とすことにつながっているだけでなく、聞き手の耳と心を痛めつけると書いているのです。

「音が凄いほどに整然としていればいるほど、きいているこちらの耳は、心は、何か金属の棒か、針をあてられたように、痛む。」

今という時代からこの吉田秀和氏の一文を読めばいったい何を聞いていたんだと言いたくなるかもしれません。
しかし、それは吉田ほどの存在であっても時代からの制約は逃れられないと言うことを示した一例と言うべきなのでしょう。

吉田はこの一文の中でベームのモーツァルトを取り上げて、「引き締まった、リズムの躍動の鮮やかな、透明な線の音楽」とも述べています。
これもまた、今のピリオド楽器による演奏になれた耳からすればひっくり返りそうな評価ではあります。

しかし、ベームがベルリンフィルと完成させたモーツァルトの交響全集は当時のモーツァルト演奏のスタンダードであり、その地位は70年代に入っても揺るがなかったのです。
ですから、そう言う吉田の言葉は、当時のモーツァルト演奏を考える上での基準線がどこにあったのかを示しているにすぎないのです。

吉田はマリナーとバルシャイを俎上に上げて比較しながら、そう言う時代の中にあってマリナーとアカデミー室内管弦楽団が提示したモーツァルトの姿に「価値のある新しさ」を見いだしたのです。
K.183のト短調シンフォニーとK.201のイ長調シンフォニーの録音を例に挙げて「(彼らの)演奏をまって、はじめて今日に蘇ってきたといっても、まちがいではない」と述べているのです。

しかしながら、今という時代から振り返ってみれば簡単に分かることなのですが、バルシャイとモスクワ室内管弦楽団によるモーツァルトは、そんなマリナー達のモーツァルトのはるか先を歩んでいたのです。
そして、当時の基準線とも言うべきベームのモーツァルトから眺めてみれば、彼らの演奏に秘められた革命的とも言うべき新しさを正確に理解するのは途轍もなく難しいことだったのです。

ですから、一部でよく口にされるように「吉田秀和なんて音楽のことは全く分かっていない」みたいなことは言うつもりはありませんし、そのような言い方は全く正しくはありません。
現在から過去を振り返って、その過去の至らぬ点を批判するなどと言うことには何の意味もありません。

そうではなくて、演奏というものもまた「演奏史」の中においてこそ、はじめてその真価が分かると言うことを言いたいのです。
この演奏と録音は今の耳から聞いてもいささかゾクリとするほどの凄みを持っているのですが、それをベームによるモーツァルト演奏がスタンダードだった時代に置いてみるという「思考実験」をしてみれば、それがただならぬ「凄み」を持った演奏であったことがよく分かるはずです。

そして、過去の演奏や録音、さらには評論の中には、その様な「思考実験」を経なければ正当に評価できないものもあるのです。
とりわけ、評価すべき対象が時代の制約を大きく超えようとしていたものに対しては、その様な手続きが絶対に必要なのです。

なお、バルシャイとモスクワ室内管弦楽団による録音については録音年さえもよく分からないものもありますし、初出年等についても殆どがクレジットされていません。あまりにも時代の先を行きすぎていたがゆえに正当な評価されなかったことや、ソ連の崩壊と言う政治的要因なども重なった結果かも知れません。
そこで、ライブ録音に関してはここで示したジャケットのレコードに収録されている音源と同一のものなのかは確認は取れていませんが、参考までに掲載しておきました。

なお、ジャケットで示したレコードに収録されている音源と同一音源であれば、全て初出から50年以上が経過しているのでパブリック・ドメインです。
もしも、同一音源でないときでも、録音から50年以上にわたって未発表と言うことになりますので、その場合もパブリック・ドメインとなっています。