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ベートーベン:ピアノ協奏曲第4番 ト長調 Op58


ドラティ指揮 (P)ジーナ・バッカウアー ロンドン交響楽団 1963年7月録音をダウンロード

  1. ベートーベン:ピアノ協奏曲第4番 ト長調 Op58「第1楽章」
  2. ベートーベン:ピアノ協奏曲第4番 ト長調 Op58「第2楽章」
  3. ベートーベン:ピアノ協奏曲第4番 ト長調 Op58「第3楽章」

新しい世界への開拓



1805年に第3番の協奏曲を完成させたベートーベンは、このパセティックな作品とは全く異なる明るくて幸福感に満ちた新しい第4番の協奏曲を書き始めます。そして、翌年の7月に一応の完成を見たものの多少の手なしが必要だったようで、最終的にはその年の暮れ頃に完成しただろうと言われています。

この作品はピアノソナタの作曲家と交響曲の作曲家が融合した作品だと言われ、特にこの時期のベートーベンのを特徴づける新しい世界への開拓精神があふれた作品だと言われてきました。
それは、第1楽章の冒頭においてピアノが第1主題を奏して音楽が始まるとか、第2楽章がフェルマータで終了してそのまま第3楽章に切れ目なく流れていくとか、そう言う形式的な面だけではなりません。もちろんそれも重要な要因ですが、それよりも重要なことは作品全体に漂う即興性と幻想的な性格にこそベートーベンの新しいチャレンジがあります。

その意味で、この作品に呼応するのが交響曲の第4番でしょう。
壮大で構築的な「エロイカ」を書いたベートーベンが次にチャレンジした第4番はガラリとその性格を変えて、何よりもファンタジックなものを交響曲という形式に持ち込もうとしました。それと同じ方向性がこの協奏曲の中にも流れています。
パセティックでアパショナータなベートーベンは姿を潜め、ロマンティックでファンタジックなベートーベンが姿をあらわしているのです。

とりわけ、第2楽章で聞くことの出来る「歌」の素晴らしさは、その様なベートーベンの新生面をはっきりと示しています。
「復讐の女神たちをやわらげるオルフェウス」とリストは語りましたし、ショパンのプレリュードにまでこの楽章の影響が及んでいることを指摘する人もいます。
そして、これを持ってベートーベンのピアノ協奏曲の最高傑作とする人もいます。ユング君も個人的には第5番の協奏曲よりもこちらの方を高く評価しています。(そんなことはどうでもいい!と言われそうですが・・・)

野太い!ごっつい!!荒っぽい!!!

ジーナ・バッカウアー。
この名を冠したコンクールによって、ピアノ学習者にとってはそれなりに名の知れたピアニストのようです。
ちなみに、このジーナ・バッカウアー国際ピアノコンクールはそれほど名のあるピアニストは輩出していないのですが、18歳以下を対象としたヤングアーティスト部門では1999年にユンディ・リが優勝しています。彼は、この翌年のショパンコンクールでアジア人としては初めての優勝を成し遂げたことは今さら言うまでもないことです。

しかし、「聴き専」にとってはほとんど忘れ去られた存在となっています。かろうじて、「マーキュリー・リヴィング・プレゼンス」シリーズがリリースされたことでかろうじて記憶の端に引っ掛かっているというレベルです。ただし、タワーレコードの宣伝文句に「イギリスの名女流ピアニストのジーナ・バッカウアー(ブラームスの協奏曲第2番など)」と書かれていたのはご愛敬です。

長いキャリアですから、イギリスで演奏会を開いたことはあるでしょうが、彼女はギリシャの出身であり、たとえ父親がオーストリア人であっても自分はギリシャ人だというのが彼女のアイデンティティでした。そして、活動の中心がアメリカに移っても、彼女はアメリカ人にはなりませんでしたし、当然の事ながらイギリス人にもなりませんでした。
ちなみに、彼女の経歴についてはこちらのページが一番詳しいようです。
現役時代には「鍵盤の女王」ともたたえられたピアニストも、死後40年も経過するとその出自さえ間違われてしまうことに、時の流れの儚さを感じさせてくれます。

さて、その様な彼女のピアノなのですが、ファーストインプレッションとしては以下の2点に尽きます。

  1. 野太い、ごっつい!!

  2. 荒っぽい!!


つまりは、女性のピアニストにイメージされるものとは全く縁がないと言うことです。そして、その荒っぽさはマーキュリーのハイクオリティの録音によって克明にとらえられていますので、彼女の大柄で力強いピアノを感心しながらも、どうしてあっちでもこっちでも、こんなに響きが混濁するの?という思いを最後まで持ち続けることになってしまいます。
確かに、このように記録されたレコードだけで演奏家を評価するのは大きな間違いを引き起こします。その事には留意しながら聴き進めたとしても、それでも、例えばショパンの二つの協奏曲などを聴かされると、響きだけでなく音楽のとらえ方そのものまでもが、あまりにも大雑把すぎるだろうと思わずにはおれません。

確かに、こういう大雑把さは実演ではレコードほどには気にならないことは事実です。構えの大きさや、前につき進んでいく勢いみたいなものに揺さぶられてしまえば細部はあまり気になりません。それどころか、あまりにも細部を精緻に仕上げることに専念している演奏にであうと、時には「何を辛気くさいことやっている」などという恐れ多いことをほざいてしまう誤りを犯すことすらあります。

しかし、何度も繰り返し聞かれることを前提としたレコードでは、その様な大雑把さと荒っぽさはマイナス以外の何ものでもありません。そして、不思議に思うのは、どうして上手くいっていない部分の録り直しをしなかったのかということです。
しかし、これもまた彼女の気性によるところが大きかったのかもしれません。

レコード産業が爆発的に発展していくこの時代に、繰り返し聞かれることを前提とした録音では通常のコンサートとは異なるアプローチが必要なことを自覚する演奏家が次々と現れてきます。その最たる存在がカラヤンでした。
しかし、このバッカウアー女史は、そう言う新しい動きには無頓着であり、基本的には「劇場の人」だったんだろうと思います。演奏全体の勢いを殺いでまで細部に拘る理由が彼女には理解できなかったのかもしれません。

そして、彼女が駆け出しのピアニストであれば録音プロデューサーも駄目出しできたでしょうが、相手が時の「鍵盤の女王」であれば、「何も言えない」と言うことになったのでしょう。

ただし、これを実演で聞けばかなりの迫力があったことは事実です。
残念なのは、彼女の名刺代わりでもあったブラームスのコンチェルトが意外と大人しいことです。しかし、その代わりといっては何ですが、ミスターSこと、スクロヴァチェフスキーのサポートが素晴らしいです。一部では響きが薄すぎると文句を言う向きもあるのですが、それなりのシステムで再生すれば、その響きの美しさには感嘆させられます。薄いのではなくて、精緻なのです。
彼がサポートしているベートーベンの5番でも同じ事が言えます。あの美しい第2楽章が本当に美しく響きます。