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R.シュトラウス 交響詩「英雄の生涯」


カラヤン指揮 ベルリンフィル 1959年3月2日~4日録音をダウンロード


オーケストラによるオペラ



シュトラウスの交響詩創作の営みは「ドン・ファン」にはじまり(創作そのものは「マクベス」の方が早かったそうだが)、この「英雄の生涯」で一応の幕を閉じます。その意味では、この作品はシュトラウスの交響詩の総決算とも言うべきものとなっています。

「大オーケストラのための交響詩」と書き込まれたこの作品は大きく分けて6つの部分に分かれると言われています。
これはシュトラウスの交響詩の特徴をなす「標題の設定」と「主題の一致」という手法が、ギリギリのところまで来ていることを示しています。つまり、取り扱うべき標題が複雑化することによって、スッキリとした単一楽章の構成ではおさまりきれなくなっていることを表しているのです。

当初、シュトラウスがあつかった標題は「マクベス」や「ドン・ファン」や「ティル」のような、作曲家の体験や生活からははなれた相対的なものでした。その様なときは、それぞれの標題に見合った単一の主題で「つくりもの」のように一つの世界を構築していってもそれほど嘘っぽくは聞こえませんでした。そして、そこにおける主題処理の見事さとオーケストラ楽器の扱いの見事さで、リストが提唱したこのジャンルの音楽的価値を飛躍的に高めました。

しかし、シュトラウスの興味はその様な「つくりもの」から、次第に「具体的な人間のありよう」に向かっていきます。そして、そこに自分自身の生活や体験が反映するようになっていきます。
そうなると、ドン・ファンやティルが一人で活躍するだけの世界では不十分であり、取り扱うべき標題は複雑化して行かざるをえません。そのために、例えば、ドン・キホーテでは登場人物は二人に増え、結果としてはいくつかの交響詩の集合体を変奏曲形式という器の中にパッキングして単一楽章の作品として仕上げるという離れ業をやってのけています。
そして、その事情は英雄の生涯においても同様で、単一楽章と言いながらもここではハッキリと6つの部分に分かれるような構成になっているわけです。
それぞれの部分が個別の標題の設定を持っており、その標題がそれぞれの「主題設定」と結びついているのですから、これもまた交響詩の集合体と見てもそれほどの不都合はありません。

つまり、シュトラウスの興味がより「具体的な人間のありよう」に向かえば向かうほど、もはや「交響詩」というグラウンドはシュトラウスにとっては手狭なものになっていくわけです。
シュトラウスはこの後、「家庭交響曲」と「アルプス交響曲」という二つの管弦楽作品を生み出しますが、それらはハッキリとしたいくつかのパートに分かれており、リストが提唱した交響詩とは似ても似つかないものになっています。そして、その思いはシュトラウス自身にもあったようで、これら二つの作品においては交響詩というネーミングを捨てています。

このように、交響詩というジャンルにおいて行き着くところまで行き着いたシュトラウスが、自らの興味のおもむくままにより多くの人間が複雑に絡み合ったドラマを展開させていくこうとすれば、進むべき道はオペラしかないことは明らかでした。
彼が満を持して次に発表した作品が「サロメ」であったことは、このような流れを見るならば必然といえます。
そして、1幕からなる「サロメ」を聞いた人たちが「舞台上の交響詩」と呼んだのは実に正しい評価だったのです。

そして、この「舞台上の交響詩」という言葉をひっくり返せば、「英雄の生涯」は「オーケストラによるオペラ」と呼ぶべるのではないでしょうか。
シュトラウスはこの交響詩を構成する6つの部分に次のような標題をつけています。

第1部「英雄」
第2部「英雄の敵」
第3部「英雄の妻」
第4部「英雄の戦場」
第5部「英雄の業績」
第6部「英雄の引退と完成」

こう並べてみれば、これを「オーケストラによるオペラ」と呼んでも、それほど見当違いでもないでしょう

ゲルマン的な野人としての英雄

この録音はカラヤンにとっても大きな意味を持つものでした。何故ならば、その後、彼の録音活動の拠点となるドイツ・グラモフォン(以下、DG)における最初の録音だからです。

カラヤンはDGを拠点として、死ぬまでに330曲という膨大な録音を残しました。その結果として、彼のレコードやCDの売り上げはDG全体の3分の1を占めるまでになりました。そうなると、DGにおけるカラヤンの存在は絶対的なものとなり、彼は全く持って自由に振る舞うことが可能となりました。
おそらく、その「自由」こそが、彼は死ぬまでDGとの関係を維持した最大の理由だったのでしょう。

彼は自分が録音したい作品を全く持って自由に選ぶことができました。共演者の選択においても同様であり、わずか15歳だったアンネ・ゾフィー・ムッターを贔屓にすることも自由でしたし、自分の80歳を祝う記念盤に妻の水彩画を使う事も全くの自由だったのです。
DGにおいて、彼を批判するような人物は存在することを許されなかったのです。

しかし、DGにおけるこの最初の録音を聞いていていると、その事が彼にとって本当にいいことだったのだろうかと思えてきます。

カラヤン嫌いだった私がカラヤンを再発見したのは50年代におけるフィルハーモニア管との一連の録音と出会ってからです。
その後、55年にベルリンフィルを手中にした録音もほぼ全て聞いてみました。もちろん、全てが「名盤」というわけにはいきませんが、そのどれもがトスカニーニ張りの推進力と歌心に満ちた素晴らしい演奏ばかりでした。
この当時の録音は全てEMIで行っています。
EMIには、まだ無名に近かったカラヤンを抜擢し、彼を育て上げたレッグという人物がいました。おそらくは、EMIにおいては、この五月蠅いじいさんの小言に耐えながらキャリアを積み上げていったのでしょう。

しかし、60年代に活動の拠点がDGに移ると、彼の音楽作りは変わっていきます。何時の頃からか、後の時代に「カラヤン美学」と称される音楽作りが顔を出すようになってくるのです。
このカラヤン美学とは「徹底したレガート奏法と、ピッチを高めに調整した弦楽器群の輝かしい響きによって聞き手を陶酔させることを何よりも大切にした美学」だと書いたことがあります。
もちろん、多くの聞き手は、そのようなゴージャスで美しい響きを大歓迎しました。しかし、私はそのような奏法で造形された音楽は好みませんでした。

ここからは、全くの「歴史上のIF」ですが、もしもDGにおいてもレッグのような存在がいれば、カラヤンはあそこまで無批判に己の美学に突っ走ることはなかったのだろうと思いますし、そうならなかったことがとても残念に思うのです。
何故ならば、このDGにとっても記念すべき第1回の録音となる「英雄の生涯」には、その後の「カラヤン美学」と称されるような音楽作りは微塵も感じられないからです。
それどころか、ここには未だにドイツの田舎オケとしての風情を色濃く残したベルリンフィルの野性味あふれた響きを聞くことができます。ここで描かれる「英雄」は金色の甲冑もまとっていませんし、嫌らしい化粧も施されていません。それよりは、いかにもゲルマン的な筋骨隆々たる野人としての英雄です。

私個人としては、これ以後もこの路線で音楽を作っていって欲しかったのですが、そうすればきっとカラヤンは「帝王」にはならなかったでしょう。それは、やはりカラヤンにとっては「有り得ない選択肢」だったのでしょう。