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ベートーベン:交響曲第9番 ニ短調 「合唱付き」 op.125


クリュイタンス指揮 ベルリンフィル 1957年12月をダウンロード


何かと問題の多い作品です。



ベートーベンの第9と言えば、世間的にはベートーベンの最高傑作とされ、同時にクラシック音楽の最高峰と目されています。そのために、日頃はあまりクラシック音楽には興味のないような方でも、年の暮れになると合唱団に参加している友人から誘われたりして、コンサートなどに出かけたりします。

しかし、その実態はベートーベンの最高傑作からはほど遠い作品であるどころか、9曲ある交響曲の中でも一番問題の多い作品なのです。さらに悪いことに、その問題点はこの作品の「命」とも言うべき第4楽章に集中しています。
そして、その様な問題を生み出して原因は、この作品の創作過程にあります。

この第9番の交響曲はイギリスのフィルハーモニア協会からの依頼を受けて創作されました。しかし、作品の構想はそれよりも前から暖められていたことが残されたスケッチ帳などから明らかになっています。
当初、ベートーベンは二つの交響曲を予定していました。
一つは、純器楽による今までの延長線上に位置する作品であり、もう一つは合唱を加えるというまったく斬新なアイデアに基づく作品でした。後者はベート−ベンの中では「ドイツ交響曲」と命名されており、シラーの「歓喜によせる」に基づいたドイツの民族意識を高揚させるような作品として計画されていました。
ところが、何があったのかは不明ですが、ベートーベンはまったく異なる構想のもとにスケッチをすすめていた二つの作品を、何故か突然に、一つの作品としてドッキングさせてフィルハーモニア協会に提出したのです。
そして出来上がった作品が「第九」です

交響曲のような作品形式においては、論理的な一貫性は必要不可欠の要素であり、異質なものを接ぎ木のようにくっつけたのでは座り心地の悪さが生まれるのは当然です。もちろん、そんなことはベートーベン自身が百も承知のことなのですが、何故かその様な座り心地の悪さを無視してでも、強引に一つの作品にしてしまったのです。

年末の第九のコンサートに行くと、友人に誘われてきたような人たちは音楽は始めると眠り込んでしまう光景をよく目にします。そして、いよいよ本番の(?)第4楽章が始まるとムクリと起きあがってきます。
でも、それは決して不自然なことではないのかもしれません。
ある意味で接ぎ木のようなこの作品においては、前半の三楽章を眠り込んでいたとしても、最終楽章を鑑賞するにはそれほどの不自由さも不自然さもないからです。
極端な話前半の三楽章はカットして、一種のカンタータのように独立した作品として第四楽章だけ演奏してもそれほどの不自然さは感じません。そして、「逆もまた真」であって、第3楽章まで演奏してコンサートを終了したとしても、〜聴衆からは大ブーイングでしょうが・・・〜これもまた、音楽的にはそれほど不自然さを感じません。

ですから、一時ユング君はこのようなコンサートを想像したことがあります。
それは、第3楽章と第4楽章の間に休憩を入れるのです。

前半に興味のない人は、それまではロビーでゆっくりとくつろいでから休憩時間に入場すればいいし、合唱を聴きたくない人は家路を急げばいいし、とにかくベートーベンに敬意を表して全曲を聴こうという人は通して聞けばいいと言うわけです。
これが決して暴論とは言いきれないところに(言い切れるという人もいるでしょうが・・・^^;)、この作品の持つ問題点が浮き彫りになっています。

感心と感動

クリュイタンス&ベルリンフィルによるベートーヴェンの交響曲全集も、今回の9番と8番でとりあえず一段落です。残りの6番と1、2番は隣接権が消滅するのが12年なのでしばらく間があきます。
今回、最後の9番と8番をアップする前に改めて聞いてみたのですが、最近彼について考え続けてきたことをあらためて「なるほどな!」と納得した次第です。そして、その納得したことを書くとクリュイタンスが大好きな人達から顰蹙を買いそうなのですが、やはり思ったことは正直に書くべきでしょう。(何と言う、持って回ったいい方^^;)

9番も8番も、どちらも明晰で造形のしっかりとした演奏です。
8番の、延々とフォルテの指示が続くような部分でも決して荒っぽくなることがなく整然と音楽が進行していきます。第3楽章中間部のホルンの響きも実に魅力的です。
わたしが大好きな9番の第3楽章も、辛口の清酒のようなシャッキとしたメランコリーに溢れていてとってもいい感じです。それに、最後の合唱もこの時代としては意外なほどにがっちりとしたアンサンブルで、クリュイタンスのイメージする第9の世界にぴったりなように思えます。

つまり、どこをとっても実に『感心』させられることばかりで、それはこれ以前にアップした3番から7番にもすべて共通することです。
しかし、このすっかり『感心』させられた演奏を聞き続けてきて、とっても贅沢だとは思いながら、1つの不満を抑えることができないのです。
クリュイタンスのベートーヴェンはずいぶん前に聞いた記憶はあるのですが、ほとんど私の視界からは消えていました。そんな演奏がふたたび視界のなかに入ってきたのは、それらがパブリックドメインの仲間入りをしたからです。ですから、彼の第7番の演奏を聞いたときはほとんど初めてのようなもので、そのインテンポの鬼もいうべき演奏スタイルが醸し出す不思議な迫力におおいに魅了されたものでした。
しかし、彼のベートーヴェンを次々と聞き続けていくと、「おそらく、次はこんな感じだろうな!」という想像がほぼ外れることがありませんでした。もちろん、どの演奏も高いレベルで安定していて、明晰で風通しのよいベートーヴェンでした。そして、どれもこれも『感心』させられるばかりでした。

しかし、そこには『感心』している自分はいても、『感動』している自分がいないことに気づかずにはおきませんでした。
『感心』と『感動』は、一字違いですが大きな違いがあります。
感心するためには、その対象に対する一定の知識が必要ですが、感動するにはそんな薀蓄は必要ありません。フルトヴェングラーのベートーヴェンを聞けば、音の悪さは脇におけば、その異常かつ、異様な迫力に聞き手の多くは圧倒され、深く『感動』するはずです。

おそらく、クリュイタンスって、とってもいい人だったんだと思います。彼の演奏からは、どれを聞いても高い知性とエレガントな人柄が伺われます。
そう言えば、シューベルティアンさんが言い得て妙のコメントをしてくれていました。
「嗜好の近い人でアンセルメの演奏はたいへんおもしろく聞いているんですが、彼の指揮も見た目には非常に上品で緻密だけれど、どこかに「悪の華」の匂いがするんです。」

そう、おそらくクリュイタンスという人はこの「悪の華」から一番遠い処にいる人のように思えます。
あまりにも常識的で健全な人間というものは、他人を感心させることはできても感動させることはできないようです。
健康的で活気にみちた明るいマリア・カラスやエディット・ピアフなんてわたしには想像することもできません。破滅的としかいいようのない彼女たちの人生を振り返るたびに、もう少し常識をわきまえていればもっと長くすばらしい歌を聞かせてくれたのにと思うのですが、もしも彼女たちがそういう常識をわきまえた人間ならば、決して彼女たちはカラスにもピアフにもならなかったのでしょう。

おそらく彼女たちは神に愛された存在だったのでしょうが、その代償はあまりにも大きかったのでしょう。
そして、健全な常識人が努力の末にたどり着ける到達点をクリュイタンスが示してくれたとすれば、その先の恐ろしい世界があることを、数々の偉大な芸術家達=人格破綻者の群が示してくれているという図式なのでしょう。

そう思えば、逆説的ではありますがクリュイタンスの偉大さが浮かび上がってくるような気がします。
かみに愛されなくても、ここまでこれるんだ・・・と。